
OJAS インタビュー
ギフトと歩む人たち
ここに登場するのは、ニューヨークのOJAS溢れる魅力的な人たちです。
彼らの共通点、それは、
「ギフトを使って自分を最大限に活かして生きている」
ギフトを使って生きるとはダルマに生きること。
ダルマとはそれぞれの人生において、「成すべきこと」。
成すべきことを成すために、与えられたギフトを使う生き方は、
OJASという人の輝きにつながっていきます。

川端理映子
バイオリニスト
「毎日仕事に行きたくてしょうがないんです」
なんとも幸せな発言をするのは、ブロードウェイミュージカル「A Beautiful Noise : Neil Diamond」でコンサートマスターとしてバイオリンを弾く川端理映子さん。これまで「オペラ座の怪人」、「レ・ミゼラブル」、「ミス・サイゴン」とロングランショーをはじめ、2017年には、ロックの殿堂入りしているソウルグループ「The Temptations」を描いた「Ain’t to Proud」で演奏してきた実力者。
「家族も大切ですが、用事は仕事が休みの日にしてほしい(笑)」
と言うが、11歳の男女双子たちがインタビューの間に顔を出すたび、
「なあに、どうした?」「お腹すいた?」
と、さっと声音は柔らかく、優しくなる。いつ何時でも母からこんな安心が与えられていたら、子供はどの方向にでものびのびと育つことができるだろうと思う。「安心」は子供たちにグラウンディングをもたらし、それがあるからこそわたしたちの意識はどこまでも広がって行けるから。
「彼らには外で自由にいろいろなことに挑戦して欲しい。そのためにも、安心して帰ってこれる場所を作ってあげたいんです」
ニューヨークの金融業界で昼夜なく忙しい韓国系アメリカ人の夫デイビッドさんと、未来を描きながら購入したマンハッタンのお宅は、家族の中心となるキッチンの窓からイーストリバーが望める。
ブロードウェイでステージに立つと言えば、オーディションを連想する。磨き上げた「技術」と「才能」と「輝き」、持てるすべてをジャッジたちの前で披露し、「探している役割にガチッとハマる自分」をアピールする。古くは「コーラスライン」の始まりのシーン、最近ではKpopやJpopのオーディション番組でも、「誰かを選ぶこと」、いや、「選ばれること」のシリアスさが描かれている。
理映子さんはどのようにしてそれらを身につけ、座を獲得してきたのだろうか。


人間力=信頼。だからこそ「口コミ」は強い
「バンドの採用はオーディションじゃなく、100%口コミなんです」「コネがないと一歩も進めないんです」
なんだろう、これは理映子さんの謙遜なのだろうか?それとも本当にそうなのだろうか?口コミなんて、海外から来ている人間にとってオーディションの突破よりもさらにはるかに高い壁となろう。
「ブロードウェイで弾きたいと思ったら、まずはレギュラー(正社員)で弾いている人になんとか連絡する。大体はていねいにお返事をくれま すが、実際はほとんど相手にされないもの。なのでどこかで何かの飲み会があると聞けば入り込み、どこどこのショーの人たちがハングアウトしているバーはここ、などの情報があれば駆けつけ、顔と名前を売り込みます」
理映子さんの場合、その頃参加していた映画音楽やコンサートなどで一緒になった演奏家がブロードウェイでも弾いていたことや、学生時代の友人のご家族の紹介などが最初のきっかけとなった。
「みなさんそうして誰かの推薦をもらってサブスティトゥート(控え)として仕事を手にします。それでもショーには終わりが来るので、そこで無職になります」
最初の仕事は誰もが真剣なので、その姿勢を買われて二つ目につながる可能性が高い。しかしその気力を三つ目のショーまで保つのは簡単ではないという。
「わたしも三つ目が決まった時、やっと少しホッとしました。ああ、これでなんとかこの世界でやっていける、って」
つまり運よくブロードウェイで弾く、というきっかけの糸を掴んだとしても、実力が伴わなければその噂はすぐに広がる。技術力、コミュニケーション力/人間力=信頼。だからこそ「口コミ」は強い。


ありとあらゆるエネルギーが4次元的に絡まり合うこの街で、ブロードウェイで弾くという理映子さんの強い想いは、そこへつながる短い糸や弱い糸、または頑丈なそれを探し出し、たぐり寄せて繋げていった。
彼女のその途切れない想いはどこから来るのだろう。
「訓練されてきたものとは違う道でしたが、ブロードウェイに目標を決めてからは全くブレていません。誰かに強制されたものではなく自分でやりたいと思えたことだったので。ビザ問題などで悔しい思いをしたことはありますが、辛いと思ったことはないですね、『辛い』には免疫があったので」
「バイオリンの練習を」、と幼稚園を中退
理映子さんの訓練は、2歳でピアノ、3歳でバイオリン、クラッシックしか認めないピアノ講師の母親の元でスタートした。
「母は楽しそうでしたがわたしはひとっつも楽しくなかったです」
母親は、『お遊戯する時間があったらバイオリンの練習をしましょう、』と幼稚園を3ヶ月で中退させ、10歳になる頃には、『うちの子は才能があるから』と、東京交響楽団をバックにソロで弾く舞台をセッティングした。
「強引な母親と、連れてこられている自分への、楽団の方たちの反応にも気づいていましたし、なにより母親が恥ずかしくて」
小、中学校はコンクールなどの練習のためにたびたび欠席。友達を作る機会はなく、時々登校したところで自分の席もわからない、周りからも浮いてしまう。孤独と居心地の悪さを正当化するために、自分でも『私はあなたたちとは違うから』などと思い込んでみたりして、そのうち学校には行けても行かなくなっていったという。


「おでこが狭すぎるわ」と毛抜きで
それは12,3才の頃。母親と地下鉄に乗っていたときにモデルエージェンシーの人に声をかけられた。『え、それなんだろう、おもしろそう』と思うや否や、母親がその人と理映子さんの前に立ちはだかり、「結構です、うちの子はもう専門でやっていることがありますから」、と遮った。
「その時学んだんですね、『ああ、おもしろそうと思うことさえだめなんだ』って。3秒くらいでの気づきでした。『何かに興味を持つとしんどいことが起きる』、って。弟にも教えました、『感じるからしんどいんだよ、感じなければいい』って」
モデルにスカウトされるくらい整った面立ちの理映子さん。だが母親は、「あなたはどうして鼻が高くないの?」「なぜわたしに似ていないの?」「おでこが狭すぎるわ」と、容姿にもダメ出しをした。実際に、おでこの毛を毛抜きで抜かれていたという。
「だからこのおでこは人工なんですよ。笑」
母親のスケジュール管理、監視は続いた。バイオリン以外で許されたのは水泳となわ跳び。夕方の練習の合間に「時間よ、行ってらっしゃい」と、庭に促され、ひとり、「なわ跳び30分」をした。
好成績で進学した東京の有名音楽高校には、似たような環境で育った生徒がたくさんいた。天才もいたし、努力家もいた。やっと分かり合える友人ができたが、家で電話で話していると、それに気づいた母親が乱暴に切った。高校に入っても、強制された訓練の日々であったが、すでに全てに限界だった彼女の練習の質は落ち、成績は目に見えて下がっていった。当然コンクールでも結果を出せなくなってゆき、母親のヒステリーは強くなる。それでも、
「そのころは口答えも反抗もしたことはなかったです」。


手に負えない怒りに対処するために
理映子さんは「母親の夢」に気づいていた。それはどの親も願う「子供の幸せ」であり、「子供の成功」。一方、理映子さんの夢は「この家から出ること」だけ。両親は折り合いが悪く、子供の教育に対しても意見が合わず、家の中には常に怒声怒号が飛び交っていた。理映子さんは、寂しさも傷も、不安も悲しみも、すべて一人胸のうちで処理していた、それを「感じない」という方法で。
母親への怒りが自分のなかに抑えておけなくなったのは、ずっと後になる。ニューヨークで深い安心を与えてくれた夫と出会い、結婚をして双子を出産してからのこと。
「こんなに大切な存在によくあんなことができたものだ、ってどんどん怒りが溢れてきて」
どうにも手に負えない怒りに対処するため、異国の地で双子を育てながら、キネシオロジーやサイキックリーディング、カウンセリングなど色々なヒーリングワークを始めた。自分の事実に向き合うことはあまりにも大変で、途中でギブアップすることもあった。しかし、のちに母親への怒りに対して、「ああ、もういいや」と思える日が来るのは、この時期の「自分へのヒーリング/癒し」の結果であろう。
アメリカへ。そして人生ではじめての選択
大学進学のタイミングで、父親のアメリカ転勤が決まり、家族で引っ越した。もうすでにバーンアウトしていた理映子さんに、音楽に対する情熱はなかったが、生きてゆくにはバイオリンを弾くしかなかった。
「イヤじゃなかったんですか?」
「イヤでしたよ」
イヤでも母親から逃れるにはこの方法しかない。西海岸に居を構えた家族と離れ、18歳の理映子さんはバイオリンを背負い、ひとりでアメリカの大学、そして大学院へと進んだ。言葉や文化の壁に阻まれても、日本では経験することのない治安の悪さへの恐怖や危険を感じても自力で乗り越えた。電話で追いかけ追い詰めてくる母親の相手もこなした。そして卒業後は各地の交響楽団や管弦楽団でソリストを務め、ワーナーブラザーズ、ESPN、サンフランシスコ国際空港コマーシャルや映画音楽を奏でた。名だたる歌手のコンサートでも弾いてきた。技術、才能、輝きが次から次へと仕事を繋いだ。キャリアは順調に積み上げられていたが、彼女の中での焦点は、見えているものとは違うところにずれてゆく。
「ずーっとあった違和感。全力で努力できない何か。強制されていたから反発しているのかな?とかも考えたけれど…やっぱりそんなに興味がないんだって」。


ロックな人生が始まる
一人ニューヨークに移った彼女はバイオリンをベッドの下にしまった。そしてベビーシッターやテレビ局の受付け、音楽コーディネーターなどの仕事をスタート。
バイオリンを使わずに働き始めたのだ。
彼女の人生にとっての転機は、バーテンダーとして務めた日系カラオケ店だったと言えるのではないだろうか。クラッシックの世界ではすれ違うことさえなかった、アメリカの懐メロを歌いに集う人々とカウンター越しにグラスを交わし、時を過ごした。
「お金はなかったし大変でしたけど、毎日飲んだくれてサイコーに楽しかったです!」
バイオリンをおろしたりえこさんの、傷ついた人生のリハビリ、ロックな人生が始まっていた。
多くのブロードウェイショーでは、バンドはステージに登らないが、わたしはバンドが演者と登壇する「Ain’t to Proud :The Temptations」を観せてもらった。サックスもギターもその世界でトップを行く人々が、『The Temptationsの舞台なら出るよ!』と、リスペクトで集まったスペシャルなバンドだ。揃いの衣装を着て煌々たる光を浴びて、バイオリンをあやつるのは理映子さんだった。
「バーテンダー時代にアメリカの懐メロを網羅したことが、本当に本当に救いになっています」
ニューヨークに移り、あのとき決めたバーテンダーという職。そのチョイスが手繰り寄せたのだ、
「毎日仕事に行きたくてしょうがないんです、」
と、こころからワクワクできる仕事を。
理映子さんは楽しそうに音楽を語る。
「自分が本当に好きなものは自分が弾きたい。ピアノが好きなんですけど、自分が聞きたい音を出せないから弾きたくない。でもバイオリンは弾きたい、『こういう音が欲しい』と思うと、そこに努力することができるんです」
「自分が欲しいと思う音がロックだったりする!ここ、って場面でバーンとドラムが入ってくれる!『欲しい』がクラシックじゃないんです!」
そうか、
デフォルトが『怒り』だという母親から自分を守るために、長い間「欲しい」を封印してきたから理映子さんは敏感なんだ、「欲しい」という感覚に。
いま自分の「欲しい」に忠実な彼女は芸術家としてのギフトと、磨いてきた技術を最大限に活かして生きている。
生まれたときに嵌め込まれた鋳型から自由になって。


川端理映子
出身校:
NYCU Brooklyn College
San Francisco conservatory of Music.
University of Cincinnati, college of music. (CCM)
桐朋学園音楽学校
「何が悲しいって、今のショーが終了したらチェリストのエミリーさんと会えなくなる事です。初めてのリハーサルの場で、カラダが震えたんです。彼女の隣で自分の楽器が全然違う響き方をしはじめて。え?って二人で顔を見合わせたんです。それからずっと、毎回震えが起きます。お互いの調子をバイブレーションで感じられる」
誰と弾いても『商品としての高いクオリティは提供できる』、しかし、彼女とのそれは、他の奏者たちにもわかるくらいに明確に、空気が変わるのだという。
ワンネスの場を作る二人。
先日、「A Beautiful Noise」を観せてもらった。レジェンド音楽家Neil Diamondの生涯を描いた華やかな作品だ。わたしはブロードウエイが作り上げるあの渦潮に飲まれ、レジェンドの光と影に夢中になっていたのだが、ある一曲、ニールが25年の結婚生活を終わりにする場面の刹那さに強く胸を打たれていた。ふと耳が気づいた、刹那さを音で表現しているのはバイオリンとチェロ。これがそうか、と。
理映子さんに、エミリーさんとのコンサート開催をお願いすると、
「あ、いいですね!」。
2人が巻き起こすワンネスの震えにサレンダーするのが、今から楽しみで仕方がない。
追記:
2026年の春、理映子さんはブロードウェイの話題の新作「CHESS」のステージ上で相変わらずのカッコよさだ。
さらにこの夏は期間限定リバイバルするという大作「les misérables」への参加も決定している。
「家族には本当に感謝です」。
止まることなく強く輝きつづける理映子さんのパワーは、日々成長を見せてくれる13歳になった双子たちへの愛おしさ、そして変わらず優しいデイビッドさんの存在から発しているのはまちがいない。

